代表あいさつ

にこにこサービス有限会社
代表取締役 赤嶺 節子(アカミネ セツコ)


略歴
1962年  9月 宮古島平良にて出生
1984年  3月 東北福祉大学 卒
1984年  4月 宮古島へ帰郷し、建設会社に勤務
2001年  2月 にこにこサービス有限会社 設立
2007年 11月 たのしいデイサービス開所
32才で結婚し、42才でやっと授かり 高齢出産した息子も 今や10才。


生まれと育ち

私は、沖縄県宮古島市に、漁師である父と母の間に生まれ、
歳が2つ離れた兄と弟がいます。

豊かとは言えなくも、貧しいとも言えず、しかし父の「子供は、ご飯だけは腹いっぱい食べなくてはいけない。身体を作るもとだから」との教えで食べるのには事欠かずに育ちました。

そのせいか我が家は、みんな?、家族全員が人並み以上の健康体です。(笑)


ところで、そしていきなりですが、初めにあなたにお聞きしたい事があります。
あなたはご自分の祖父や祖母、
つまりご自分のおじいちゃんおばあちゃんとの初めての出会いを覚えていますか?

私が初めて祖母に会ったのは、季節は春から夏にかけての祖母の家でまだ、5、6才の頃でした。

いえ、本当はその前からずっと祖母を知っていたはずなのですが、なにせ幼い子供の頃の記憶です。
覚えているはずがありません。

なので私自身が、覚えている祖母の記憶の、
一番古いと思われる思い出から引用させていただきますことをお許し下さい。

私の祖母の一番古い記憶、それは・・・


初めて私が母に連れられていった祖母の家・・・
母に手を引かれて歩いて行った祖母の家は、同じ市内の歩いてほんの10分たらずの所でした。

祖母の家は木造瓦建てながら、私の家よりも大きく敷地も広い事は子供の目からも一目瞭然でした。
ちょうど祖母は、敷地内の裏手にある豚小屋で、豚にエサをあげている所でした。

あとで聞いた話しですが、この豚は私の両親が、入学やお祝い事など子育ての、何かお金が必要な際に後々の現金収入のためになるからと、養っていたのだそうです。

ご飯を前にしての豚たちの嬉しそうな鳴き声と、それまでに嗅いだことのない異臭が、夏の暑さの熱気に混じり、むせかえるような場面であった事を覚えています。

そしてもっと印象的だったのが、そのような中で顔中から吹き出す汗をタオルでフキフキ、私を迎えてくれた祖母の笑顔でした。

女だてらにたくましそうな腕でかかえる、重たさそうなバケツと真剣な表情が、
私の顔を見るなりとっても優しい笑顔に変わりました。
その時の祖母の笑顔は今でも私の中にしっかりと焼きついており、一生忘れる事はないでしょう。

そして余談ですが、今は無きその愛する祖母の土地に、現在は私たちにこにこサービスが、ヘルパーとデイサービスを拠点に、賃貸共同住宅を展開しています。

今思えば、祖母との出会いが私の運命を変えたように思います。
祖母は若くして夫と死に別れ、女手一つで子供5人を育てました。

朝から晩まで働きづくめであった様子を覚えています。
口数が少なく朝は陽の昇らない前から、夜は日が沈んでからも畑に出てよく働いていたのを記憶しています。
そして子供は、長女である私の母を除いて皆、島外に出て働き家庭を持ったため、祖母は早くから一人暮らしとなっていたようです。

私はよく小学、中学、高校と学校の帰りに祖母の家に寄った記憶があります。

祖母は畑に出ている事が多いため、留守がちでしたが、それでも私のために「自由に上がって、食べて飲んで、ゆっくりしていきなさい」ちゃぶ台に、お茶と私の大好きな麸菓子を用意してくれていたのを覚えています。
それが目当てで、私たち兄弟はよく祖母の家に出入り始めたのですが、やがて目的がかわっていきました。

それは、そんな元気者の祖母が働き過ぎがたたり、たびたび入院するようになったからです。

そしてその頃から、豚たちのお世話は、祖母に代わり私たち家族、私と兄と弟の、
私たち兄弟3人の役目となりました。

入院した祖母を病室で見舞った時は、もう祖母は小さく見えていました。

私が人間の「老化」や「病気」そして「人生」や「死」を間近に感じ意識した、
おそらく初めての瞬間かもしれません。

この頃に、おぼろげながら「人生」や「老化」「病気」のことを意識しはじめたのかもしれません。

その後私が東北福祉大学という学び舎を選んだことからしても、祖母の存在は、祖母を通しての人生への問いは、きっと大きかったのだろうと思います。

今思えば祖母を通して「老病死」の、さけられない人間の宿命、それは後に生業とする介護が扱うテーマなのですが、密かに触れていたのかもしれません。

そしてこの時点でさえ、私が現在のような介護事業を自ら行うようになるとは、露ほどにも思いませんでした。

そのような私が
祖母の思い出に、祖母が話してくれた"古き良き時代の思い出"があります。

TVがまだない頃は、仕事が終わって夕涼み。隣近所は皆通りの1カ所に集まって、飲みながら団欒をしていたそうです。

隣の○○さんが、見えないと誰かが「○○は、風邪ひいて寝込んでいるようだ」とか。
向こう三軒両隣の生活が確立されていたとの事。

きっかけは夫の転職でした。
ケアマネジャーの資格を取った夫が、資格を生かしたいと転職しました。

それは相当に相当に悩みぬいた末の決断でしたが、家計を考えた場合、共働きでなければやっていけないのが当たり前の中、私が1年以上も無職の状態であった事(面接しては落ちるの繰り返し。決して求職活動をしていないわけではない)を考えれば、やむをえない決断であったと思います。

さて夫の転職先は、当時有名なベンチャー企業。
介護保険開始直前の2000年 現地採用、現地就職を謳い全国に多くの拠点を設けて展開を計画し、多くの人材を求めている大手上場企業でした。

夫はその企業で2000年4月からケアマネジャーとして働き始めましたが、就職2カ月で宜野湾、浦添、そして6月には宮古島へと転勤、転勤の連続でした。

ちょうどその頃、その大手ベンチャー企業は成績不振から、わずか2カ月で多くの拠点を早や閉め始めており、同時に大規模なリストラを敢行し始めました。

メディアや週刊誌でも数多くとり上げられ話題となりましたが、その頃から宮古島でケアマネジャーをする夫も体調を崩し始めました。

沖縄本島の拠点とされるセンターもいくつもの閉鎖が進み、それどころか隣の石垣のセンターも閉鎖となり、いよいよ明日はわが身かと心配な様子でした。
何しろ、成績を上げても「もっともっと」と要求されるのですからたまりません。

夫は毎日、多くの不安を抱えて仕事をしているようでした。

そして喘息?まで発症するようになり、いよいよ病院で「産まれて初めて」精神安定剤を処方されました。

処方した医師は「君には今、これが必要だよ。あまり出したくないが。でもこれは2週間だけだからね。それ以上は出さないから。心配しないで飲んだらいいよ」と話していました。

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